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「夕さん 四話」 物部俊之

「夕さん 四話」 物部俊之

初秋のやわらかな風、古びたアパートの二階には不釣り合いに大きな窓。青空に染まる、干した布団のこちら側に、膝から下の足だけが乗っている、半透明の夕さんだ。干している布団の上に仰向けに寝そべっているから、膝から爪先だけがこちらから見える。
間違いなく、夕さん、大口開けて寝ているのだろうと思うと、うーん、年頃風の女の子としては大問題だ。
近づいて、夕さんをのぞき込んでみる。夕さんの物理法則には一貫性がない。
垂らした布団にそって体全体が下を向いている所為で、口は半分開いて、なんだか、気持ち良さそう。ただ、両手は万歳になっているのに、髪の毛は逆立っていなくて、スカートだってまくれ上がっていたりしない。
何度もこういう一部重力無視の姿を見て、そうだ、子供の頃、どうして、髪の毛が下に垂れないのって夕さんに尋ねたことがある。
夕さん、にかって嬉しそうに笑った。
乙女のたしなみだ、恥じらいってやつだよ、夕子も年頃になったらわかるぞって。
年頃もとっくに終わらせてしまったけれど、この法則はわからないなぁ。面白い人だ、夕さんは。
急に大声を出すとびっくりするだろうから、身を乗り出したまま、小声で呼びかけてみる。
「おおい、夕さん。起きなよ、お昼前だよ、お昼は近所の中華屋さんに行くって言ってたよ」
布団がぽかぽか暖かそうだ、でも、このままにしておけないし、ゆっくりと布団を引っ張る、急に引っ張って夕さんが落ちたら大変だ。重力にあんまり関係ないから落ちずに浮かんでいるかもしれないけど、実験するの、なんだか怖いし。布団を中程まで引っ張ったところで、夕さん気づいた。
「やぁ、夕子。おはよう」
「おはようって、二度寝だよ」
「なんだけどなぁ。お布団さんがね、暖かいよ、もう一度、お眠りよって優しく声をかけてくれてね」
「多分、ううん、間違いなく、私がそれを言ったら、布団が喋るのか、口は何処にあるって、夕さんはがつんと言うと思う」
夕さん、なんだか嬉しそうに笑った。
「ついでに言うと」
夕さんが頷いた。
「布団が自分の上に寝て貰うことを期待する理由を解説せよって言う」
あきれて溜息をつく。夕さん、恥ずかしそうに頭をかくと素直に頭を下げた。
「夕子。ごめんなさい」
「どういたしまして」
子供の頃から、喧嘩してもどちらかがごめんなさいと一言言えば私と夕さんの喧嘩は一瞬で終わる。決めた訳じゃないけど、お互いそうしているんだ。
夕さんはやっと布団から起きあがると、窓から外を眺めた。
「秋晴れの透き通った青空、小春日和の暖かい日差し。何日か前までさ、扇風機回して暑い暑いって言ってたのが嘘のようだ」
「夕さんは暑がりだからなぁ」
夕さんがくすぐったそうに笑った。
「夕子がいてくれるときは、扇風機のスイッチを押してくれるけれど、仕事に出かけているときは大変だ。田中さんに随分お世話になってしまった」
一階角の田中さん、この木造二階建ての、良く言えば由緒あるアパートの所有者で、唯一、その部屋だけにエアコンがある。夕さんは昼間、田中さんの部屋に通って涼んでいたらしい。迷惑かけたんじゃないかと恐縮していたけれど、田中さんも夕さんが話し相手になってくれて良かったと言ってくれたので一安心している。
「夕さん。声で動く扇風機もあるみたいだよ。一度、電気屋さんに行ってみようか」
「私は田中さんやアパートの人たちのアイドルだからな。たまに顔を出して愛想しなきゃだから、このままでいいよ。足が悪くってさ、外出できないおじいさんや一人暮らしのおばあさんばかりのアパートだ、喋る相手がいるだけでも楽しいらしい」
「夕さんは凄いなぁ」
「夕子に褒めてもらえると素直に嬉しい。ありがと」
夕さんはなぁ。夕さんは甘えるのがうまい。特に年上の女性に、母さん母さんと甘えていく。夕さんは綺麗な女の子だ、懐かれたら、一階角の田中さんも悪い気はしなかったろうなと思う。それに、夕さんのリハビリで少しは歩けるようになったという話もちらほら聞くし、まっいいかなとも思う。
ふと、夕さんの表情が鋭くなった。窓の遠く向こうを睨んでいる。
「夕さん。どうしたの」
「今時珍しい」
夕さんが呟いた。

「向こうの青い屋根を見てみろ。屋根の片側だけ雨が降って濡れているだろう」
変だ、雨が一メートルくらいの幅だけで降っている、まるで、これは雨の道だ。それに、心なしか、その雨の道が近づいてくるようにも見える。
「細い道を雨がゆっくりと辿っているみたいだ。ってことは、もうすぐうちの上にも雨が通るよ」
「夕子。左目を瞑れ」
夕さんの言葉にぎゅっと左目だけ閉じる。
「古代、アマテラスは怪力女だったんだろう。大男でなければ開かない天の岩戸を自分で閉めるくらいだ。私は襖一つ開ける力を持たないが、夕子の左目の奥の瞼くらいは上げてやることは出来る」
夕さんが私の後ろに立って左目に手をかざした。
「夕子。ゆっくり目を開けな」
ぼぉっと空を見上げる、空の青に染まって何かが動いていく。人、行列。
「狐の面。狐の面を付けた人たちの行列だ」
右目は普通の風景なんだけれど、左目は百はゆうに越える、狐のお面を付けた人たちが空を歩いていくのが見えた。
狐の嫁入りだ。格が高いようだな、随分と長い行列だ」
「夕さんの呪文で、左目だけが行列をみているんだ」
「呪文じゃないよ」
夕さんが笑った。
「呪文ってのは、自分より力を持つ奴に、どうぞ、力を御貸しくださいってのがその仕組みだ。はばかりながら、この夕さん。そんなへつらう真似なんぞできるかってもんだ。これは人が忘れた体の使い方だ。昔の不便な時代には普通にできたもんさ」
夕さんは不思議なことをたくさん知っている。ただ、それを尋ねると、びっくりしたように、夕子、学校で習わなかったのか、なんて言うからなぁ。
「夕子。窓を閉めてくれ」
急いで、窓を閉めた。
「どうしたの」
「やつらに、こっちから見えていると知られたくない。それに、やつらの降らしている雨だ。小便臭いかもしれないからな」
夕さん、にぃぃと笑みを浮かべる。悪役そのままの笑い方だよ。

閉めた窓の下から空を覗く。
「どうしたんだろう、うちの上で行列が止まったよ」
夕さん、思案げに俯いた。なんだか、悪い予感がする。夕さんが考え込むなんて。
「夕子。メモ帳、セロハンテープ、ボールペンだ」
「はいっ」
慌てて引き出しからセロハンテープ、机の上からメモ帳とボールペンを持ってきた。こういう場合、何がどうしてと尋ねるのは、夕さんの言うことをこなしてからの方が間違いないと子供の頃から学んできた。
「メモ帳にカタカナでゴミバコと書け。奴らに漢字が読めるかわからないからな」
「書いたよ」
「よし。テープで幸の額に張り付けろ」
「ええっ」
「御託は後だ。でないと、幸を狐に盗まれるぞ」
うわぁわっわっ、転けそうになりながら幸の宿る人形の額にメモを張り付けた。
「夕さん。貼ったよ」
振り返ったとき、雨降る窓の向こうに二つの狐の面が浮かんでいた。
気を失わずに済んだのは幸を護らなきゃって歯を食いしばったからだ。

狐の面を付けた老人が二人、ぬわりと窓に手を伸ばす。指先が窓に触れた途端、ふわっとその指先が窓硝子をすり抜けた。
狐面の下から白い顎髭が伸びている、顔は面でわからないけれど、髪が真っ白で、白い着物を纏い、踊るように膝を上げ、犬掻きのように腕を上下に振りながらやってくる、犬がふらふらと後足で器用に歩いているみたいだ。そうだ、夕さん。
夕さん、怒ってる、目を丸く見開いて瞬きもせずに、口元は笑顔なだけに怖い。
狐の面をした老人がやってくる、異様に白い腕と白い足で、踊るようにやってくる。あちらを覗き、こちらを覗き、探している、そうだ、何かを探しているんだ。そうか、夕さん、狐の嫁入りって言ってた、嫁入りなら祝い品や引き出物が必要だ。
幸を探しているんだ、人になる人形なんて滅多にない宝物だ。背中で幸を隠す、護らなきゃ、幸を護らなきゃ。
私の額に老人の指先が触れ、夕さんが声を上げた。
「いやぁ、御狐様、見事な痩せ犬の犬掻きを拝見させていただきました、眼福、眼福。後世に残る見事な犬掻き、本物の水の中でしたらとっくに溺れておいででしたな。いや、畳の上の泳法、まさしく畳の上で溺れずに済みました、幸い、幸い」
夕さんのその声に二人が振り返った。面を着けているからわからないけど、肩がゆらりと上がった、間違いなく怒っている。
ふと、老人の一人が耳元に何か感じたのか手で払おうとした。
老人の耳元で夕さんの囁き声がじわりと響く、
「おやおや、狐様、何を怒っていらっしゃるんで」
驚いた老人が飛び上がり腰を抜かしてしまった。
誰だってそうだろう、目の前にいる相手の声が自分の耳元、息のかかる距離から聞こえたんだ、誰でも驚くし、とにかく気持ちが悪い。これは夕さんの腹話術だ。夕さんは半透明で実体がない、私が手を伸ばせば、その手が夕さんをすり抜けてしまう。つまり、声帯もないのにどうして声がで出せるのか、夕さん、研究したらしい。わかったのは自分の口の少し前の辺りの空気が振動して声を作り出しているということ。ならばと、いたずらな夕さんだ、自分と離れたところの空気を震わせることができれば腹話術になるのではと訓練したらしい。
老人の首の後ろで夕さんの声がする。
「兄(あに)さん、兄さん。どうなさいやした」
狐面の老人が飛び上がって、後ろ髪をばさばさと振り払う。
じわりと染みいるような声色が首の後ろから聞こえて来るんだ、気持ちのいいものじゃない。鬼にとりつかれたようなものだ。
子供の頃だったと思う。今は夕さん、あたしはあたしだと言い切っているけれど、そう言えるまでには夕さんも本当は悩んでいたんだと思う。
あたしはオニかもしれないっていたのを思い出す。金棒担いだ鬼じゃない、古くは、気配はあるのに目に見えないモノをオニと呼んだんだ。
夕さんは怒っている、角のある金棒担いだ鬼にだって負けない、そうさ、夕さんは鬼から私を助けてくれたんだから。
狐面の老人二人、どたばたと立ち上がっては倒れ込み、跳ね上がっては一回転する、息も絶え絶えだ。
あ、狐面の老人二人、夕さんを前にひれ伏した。
あぁ、夕さんのスイッチが入ってしまう。夕さんは土下座されるのが嫌いなんだ。自分の首の後ろをさしだして、斬れるものなら斬ってみろというのが土下座だ、弱い自分をどう扱うか品定めをしてやるってことだと夕さんは言う。
夕さんが低い声で囁いた。
「その御可哀想な頭を上げろ」
ぴくんと震えて狐面の老人二人、慌てて顔を上げた。指先がふるふる震えている、怯えているんだ。
「人間が大地をどのように区切ろうが御狐様にとっては関係のないこと、自由に行けばよろしい。しかし、天井があり、床があり、壁がある、己が寝ぐらの中に他のモノがおとないも無く入ってくること、それは許されることか。ましてや、なにやら物色する様子、狐、つまりは稲荷神の従者として恥ずかしくはないのか」
夕さんの説教が始まってしまった。
夕さんの説教は長くて容赦ない。ごめんなさいと言うまで延々と続くんだ。子供の頃、いじめられて泣いて帰ったことがある、夕さん、かんかんに怒ってしまって、いじめた奴に仕返ししてくるって出かけていった、その男の子、未だに引きこもっている。私の方がなんだか申し訳ない気分になって、これからはいじめられないようにしようと思ったくらいだ。
夕さんの説教は相手の逃げ道を塞ぎ、追いつめていく。逃げ出せなくて、どんどん俯いてしまって、背中丸くなって、消えてしまいたいって思ってしまう。
どうしたんだ。狐面の老人二人が少しずつ小さくなっていく。ううん、そうじゃない、小さな子供になっていっているんだ。夕さんにどんどん押し込められて、身の置き場がなくなって、小さな子供になっていく。記憶や誇りや色々捨ててしまって、子供に戻っていく、そうか、子供なら、言葉も充分でない子供に戻れば夕さんの説教を真正面から受け止めずに聞き流すことが出来る。
夕さんがにいぃと唇を歪めた。夕さん、とことん、やる気だ。このままだと、子供に戻るどころか二人が消えてしまう。
「君たち、早くごめんなさいっていいなさい、このままだと、消えてしまうよ」
私の声が届いた。二人が顔を上げ、夕さんに聞こえない声で叫んだ。
夕さんが少し笑った。
「夕子。止めるなよ、赤ん坊どころか、卵と精子にまで逆走させてやろうと思ったのになぁ」

夕さんが手をかざして天井の向こうを見上げる。
「なるほど。お前達の主(ぬし)は九尾には一本足りない、八本の尻尾を持つ八尾狐(やおぎつね)か」
遠慮がちに狐面の子供が頷いた。すっかり、夕さんに怯えている。
にかっと夕さんが二人に笑いかけた。
「よし、包丁を貸してやるから、話をしてこい。口上はこうだ。我らが愚かなのは主が愚かだからでございます。ひのふのみよのいつつ、むのなの、七本、この包丁でその尻尾を切り落としましょう。そして、一本の尻尾を持つ狐として我らと共に世の理(ことわり)を学んでまいりましょうぞ、とこうだ。どうだ、言えるな」
狐面の上からでも二人の子供が青くなって怯えたのがわかる。後ずさりしたまま、ぺたんと尻餅をついてしまった。おろおろと首を横に振っている。
「覚えるのが大変なら、少し短くしてやろう」
幸さんの言葉にあたふたと大きくかぶりを振る。夕さん、俯いて、呟いた。
「まさかと思うが、言いたくないのか」
なんだかなぁと思う。さっきまで白い顎髭のお爺さんだったんだけど、いまは、小さな子供で、私は見た目の姿に弱いなぁと思う。
「夕さん。もういいよ」
「夕子はやさしすぎるぞ」
夕さん、仕方なさそうに笑った。
夕さん、二人の前に正座し、視線を下げる。
「二人ともよく覚えておけよ。お前達の主、八尾狐が宝物を盗ってこいと言いさえしなければ、怖い思いをせずに済んだんだ、楽しく過ごせたんだ。全ての元凶は八尾狐の我が儘な命令にある。それさえなければ、お前達は楽しくすごせたのだ、それを忘れるなよ」
狐面の子供二人、こくこくと頷いた。
夕さん得意の反乱分子の製造法、相手に不満の種を蒔いてどんどん増殖させていくんだ。夕さんは偉そうにしている奴が大嫌いだ。そういうのを見ると引きずり落としたくなるらしい。
「夕子」
夕さんが顔を上げた。
「半紙に筆で龍を描いてくれ」
「え。急に無理だよ」
「大丈夫だ。半紙に横一本線を引いてくれればいい」
それくらいならと、半紙を出してきて、ぐっと筆で横一文字に太い一本線を引いた。
「これでいいかな」
「うん、上出来だ。二人に渡してくれ」
狐面の子供が戸惑いながら受け取った。さっきまでお爺さんだったのを知らなければ、お祭りでお面を付けて遊ぶ可愛い子供だと思うだろうな。
「この花嫁行列の長さは、まさしく八尾狐様の力とその人望の証にございます。遠く何千里も離れなければ、この行列を一目で見ることなどかないませぬ。これはまさに縁起の良い龍の姿と同じではありますまいか。この吉兆の龍の絵をどうぞお納めくださいと、そう下屋のものが平伏して申しておりました。そう言いなさい」
夕さんがとびっきりの笑顔で二人に囁いた。
飴と鞭だ。さんざん、怯えさせた後でとびっきりの優しい笑顔を浮かべる。狐面の子供二人、ぼぉっと夕さんを見つめている。戸惑いと混乱、混乱させて、こちらの都合の良いように頭の中を切り替えさせるんだ。
「主様は宝物を持ってこいとおっしゃったのでしょう。持って帰らなければ、お前達は罰を受けます。それが私にはとても辛いのです。さぁ、それを持ってお帰りなさい」
多分、二人の頭の中で、夕さんはとてもやさしくて美しい女神様になっていると思う。脅されたことも自分たちに与えられた試練だと思っているはずだ。
「ただ、この龍の絵にはもう一つの意味があります」
夕さんが言葉を重ねた。
「ごらんなさい。龍の絵は水平、何処かが高くもなければ、低くもない。わかりますか」
のぞき込む狐面の少年二人がこくこくと頷いた。
「お前達も八尾狐もその身分に上下はないのです。ただ、前にいるか、中程や後ろにいるか。本当はそれだけのことなのですよ」
狐面の少年二人、じっと龍の絵を見つめる。はっと気がついたように顔を上げた。
「お前達に私が本当の名前を授けましょう」
夕さん、これでもかと淑やかに微笑んだ。
「お前は右の手のひらと書いて右掌(うしょう)、そしてもう一人、そちらのお前は左の手のひら、左掌(さしょう)です。片手で掴むことも出来ますが、両手なら大きく重いものでも抱えることが出来るのです。右掌、左掌、協力して幸せをつかみ取るのですよ」
夕さん、うまいなぁ。狐面の後ろで感激の涙を二人が流しているのがわかるよ。
「さぁ、お行きなさいな」
夕さんが立ち上がる、それっいまだと、私、窓に駆け寄って、その窓を大きく開けた。早くお帰りいただくのが間違いなく双方にとっての幸せだ。
名残惜しそうにしていたけれど、狐面の少年二人空へと帰って行く。少年二人、両手で思いっきり手を振っている。夕さんが笑みを浮かべ二人に手を振る。
「笑顔、浮かべすぎて顔がひきつりそうだ」
ぼそっと、夕さんが呟いた。
「夕さん。お疲れさま」
「あの程度ならどうってことないけれど、お腹減った。中華、食いに行こう」
夕さんがにかっと笑った。
どぉん、空に太鼓の音が響いた。それを合図に鉦や笙、賑やかな祭りの音楽が始まった。
家々の窓が開き、たくさんの人たちが、何が起こったのだと空を見上げる、歩いている人たちも空からあふれてくる賑やかな音楽に驚いて顔を上げた。
「八尾狐様は随分とお喜びの様子だ。いつか、自分の尻尾が切り落とされることも知らずにな」
にかにかと夕さんが笑う。嬉しくて仕方がないようだ。
「本当に夕さんは悪人だなぁ」
「悪人は褒め言葉。善人なんて奴等は、何かあったら、うろうろ右往左往するだけだ。でも、悪人はそうじゃない、ぎゅっと踏ん張る。この夕さんは悪いことを目的とはしないが、手段はまさしく悪人さ」
「でも、あの子達、大変だよ。返り討ちにあうかもしれない」
「名前が護ってくれるだろう。いまのあいつ等は植木鉢に咲く花だ。肥料もくれる、水もくれる、横から草が生えてきたら抜いてもくれる。でもさ、鉢の大きさ以上に根を張ることはできない。鉢から出ろ。地べたに根を生やして大きくなれってことだ」
「ええっと、それって、夕さん、いいこと言うなぁって思えばいいの」
「夕子は両親のいる家という植木鉢から出た。その今の自分をどう思う」
「わからないよ、毎日、いっぱいいっぱいだよ」
夕さん、頷いた。
「私はそういう夕子が好きだな」
「急に何言ってんだよ」
「夕子はたくさん美味しいものを作ってくれる、感謝してもしきれない。いつも、ごちそうさまです」
このアパートに越してきて、いつの間にか、田中さんやアパートの人たちを夕さんは魅了していた。魅了される気分がわかるよ。
「あのね、夕さん」
「うん、どうした」
「こちらこそ、助けてくれてありがとうございます」
夕さん、びっくりしたように目を見開いて、それから、とっても、恥ずかしそうに笑ってくれた。
「どういたしまして」