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「夕さん 六話」

「夕さん 六話」

階下から、とんとん、とんとんと釘を打つ音が聞こえてくる。幸が傾いだ棚を取り付けなおしている。朝、岡田が幸に日曜大工を教えると張り切っていた。
夕は部屋の中央に正座し、少し俯いていた、その前に男が一人座っている、夕子と夕の父親だ。
「お父さんも夕を捨てちゃうの」
夕が笑みを硬直させたまま囁いた。

幸が金槌を止め、階上を見上げる。お茶でも持って行くかなと思案げに二階へ上がった岡田がどうも気がかりなのだ。夕子が二日の間、帰ってこない、そして、夕の沈んだ顔。男の人が自分の前を、二階へと階段を上って行った。そして、その時の無機質な表情も忘れられないのだ。
幸が言祝ぎ歌を覚えて半年が経つ、今では普通の女の子だ。人形に戻ることもない。夕と夕子と三人で楽しく生活していた。
そうだ、気がかりはまだある。
夕子姉様のことだ。仕事から、夕子姉さまがお帰りになられて、いつものように抱きつこうとしたのだが出来なかった。なにか、真綿のようなふわっとしたものが夕子姉様の回りにあって、押し返されてしまったのだ。あれはなんだったのだろうと思う。夕姉様にお尋ねしようと思ったのだけれど、沈んでいらっしゃる夕姉様には相談できなかったのだ。

がしゃん、二階からガラスの割れる音がした。驚いて、幸は二階へ階段を駆け上った。
「なんだい、あんた。娘を捨てるってのかい、それでも熱い血の通った人間かい。いいさ、あんたが夕ちゃんを捨てるってなら、いまの今から、あたしが夕ちゃんの母親だ。よそのおっさんはとっとと出て行っておくれ、顔も見たかないよ。ぐずぐずしてんなら、蹴り飛ばすよ」
岡田がお茶と急須を載せた盆ごと窓に叩きつけていた。
父親は這々の体で、幸の隣りを抜け、階段を駆け下りていった。
夕はゆっくりと前へ崩れていき、うつ伏せに倒れてしまった。
「母さんがいるのはわかっていたけれど、元気だなぁ、母さんは」
うつ伏せに倒れたまま、夕がか細く笑った。
「ごめんよ、夕ちゃん。人様の親に怒鳴ってしまって」
「いいよ」
夕が呟いた。
「私が思ったこと、母さんが代わりに言ってくれただけだよ」
ゆっくりと夕が横に手を伸ばす。
「幸。格好悪い姿を見せてしまったな」
幸は夕に駆け寄るとひざまづいて、夕の手に自分の手を重ねた。
「夕姉様」
幸の両手の中で、幸がぎゅっと拳を作る。
「幸、覚えておきなさい。どんなに辛くても悲しくても苦しくても涙を流すな。流してしまえば、この痛みが流れて何処かへ行ってしまう。この痛さをぎゅっと両手で抱いて逃がすな。そうすれば、今度は自分が誰かに何かをしたとき、それがその人を幸せにするか不幸にするかを判断できるようになる、人を不幸にしなくて済むようになるんだ。幸、幸せになることは簡単だ。回りの人たちを幸せにすればいいだけだ」
歯を食いしばり、夕が体を起こした。荒い息をぐっと押さえる。
「幸、喜べ。母さんが私たちを娘にしてくれると言ったぞ。ま、母さんは気分屋だからさ、勢いで言っただけかもしれないけど、そのときは、大きな心で聞かなかった振りをしてあげるさ」
岡田は夕の前に正座した。
「食費のかからない親孝行の娘が二人もできた、これで、老後も安心だ」
夕が呟くように言った。
「母さん、ありがとうございます」

少し落ち着いて、夕が呟くように夕子のことを語り出した。
「夕子は妖しいモノを引き寄せてしまう。そういう体質です。外からそれを変えることは難しい。でも、三日前だった、その体質が反転していました。妖しいモノを強く弾く体質になっていた。多分、つき合っていた彼氏との赤ん坊を身ごもったんだと思う。赤ん坊を守ることを目的に頭と体が内側から変わっていったんだと思う」
岡田がうなずいた。
「夕子ちゃん、びっくりするほど明るくなっていた。そういや、親父さんは、あんなことを言いにわざわざやって来たのかい」
「夕子は彼氏と実家で暮らし始めたと、父さんが教えてくれました、だから、帰ってくるなということです。うちの決定権は母が持っているので、父さんはただの伝言係りです。父さんの顔を見た時点でこれはだめだなぁと思いました」
自嘲気味に夕が笑った。
「夕子の赤ん坊か。夕子が生まれたときのことを思い出すなぁ」
夕が顔を上げ、そして俯く。
「夕子は赤ん坊になんて名前を付けるんだろう」
夕が呟いた。ふと、夕の肩がぴくっと動いた。
「あたしが一番弱っているときに夕子は来る」
夕は顔を上げると岡田に言った。
「もうすぐ、夕子が来ると思う。悪いけれど、母さん、夕子は靴を脱がないだろうから、玄関で応対してください。それと、母さん、裁縫は得意かな」
「あぁ、繕いをするから大丈夫だ」
「それじゃ。少しして、幸と私も下りていきます。さぁ、幸」
夕の声に、幸が顔を上げた。
「言祝ぎの歌、七二候の歌 二曲、「霞、始めてたなびく」、「すごもりのむし戸をひらく」を歌うぞ」
夕の強い声に幸があたふた頷いた。

階下で声がした。
「こんにちは。岡田さん、いますか」
夕子のおとないの声だ。ばたばたと岡田が階段を下り、玄関口へやってきた。
「夕子ちゃん、どうしたんだい、二日間も帰ってこないで」
夕子が照れたように笑った。
「不良になったんじゃないですよ。実家に帰っていたんです」
「ま、立ち話もなんだ。早く、お上がりよ」
「いいえ、ここで」
夕子がきっぱりと言った。
「私、身ごもりました。まだ、外からはわからないくらいだけれど、赤ちゃんができたんです。やっぱりそうなると、親の援助も欲しいし、彼もうちで暮らしてくれるっていうから、実家に帰ろうと思います」
「うーん、そうかい。寂しくなるねぇ、私としてはいて欲しいけれど、体のことを思うと、それが一番かもしれないねぇ。それじゃ、夕ちゃんや幸ちゃんも帰ってしまうんだね」
「ええっ、夕さんはだめですよ。猛君、あ、彼の名前なんですけど、幽霊みたいなのがいたら来てくれません。それに、夕さん、美人ですから、もしも、猛君が夕さんに魅惑されたら大変ですよ」
けらけらと夕子が笑った。岡田の背筋に何か冷たいモノが走った。夕子の態度に脅えたのだ。
「ところで、岡田さん。人形いますか」
「え。人形って、幸ちゃんのことかい」
いきなり、夕子が岡田を睨んだ。
「幸って名前は私の赤ちゃんのための名前です。あれは人形です」
そのとき、ふらつきながら、幸が階段を下りて来た。
「夕子姉様、お帰りなさい」
夕子は万遍の笑みを浮かべた。
ふらふらと幸が夕子のもとへ駆け寄ってくる。
その夕子の右手には大きな裁ち鋏があった。
「夕子ちゃん、お止め」
岡田が叫んだ。
夕子は幸の喉元、裁ち鋏でばちんと切る。瞬間、幸は元の人形に戻り、玄関を転がった、頭だけが丸くころころと転げて止まった。
「これで、私の赤ちゃんの名前を返していただきました。一安心ですよ」
「夕子」
夕が夕子の前に立っていた。
「幸はお前を本当の姉のように、母のように慕っていた、わかっていたはずだぞ」
「状況が変わったんだから仕方ないよ」
「考えたのは実家の母さんか」
夕の問いに夕子が戸惑いなくうなずいた。
「私も、それ、一番の考えだって思ったんだ。ね、夕さん、帰ってこないでよ、お願いだから」
夕は力が抜けたように、膝をつき、玄関に座る。
「帰らないさ、そこには私の居場所はない」
夕子は頷くと、岡田に言った。
「急ですけれど、明日、引っ越し業者さんに荷物を取りに来てもらいます。私は来れないけれど、お父さんに来させますので、手続きはそちらでお願いしますね。それじゃ、さようなら」
裁ち鋏を片手に夕子は戸惑うこともなく帰って行った。岡田は腰を抜かしていたが、よたよたと立ち上がると幸の体と頭を拾い上げた。
「なんで、こんな酷いことができるんだよ」
岡田が呻き声を出す。
「母さん」
夕が言った。
「幸の首を裁縫で繋いでください」
夕の声に、岡田ははっと気がついた。慌てて、自室に戻ると幸の首を縫い頭と体を繋ぐ。
一緒に来た夕は仰向けになった人形の姿の幸の口にふぅっと息を吹き込む。幸が人の姿に戻る。先ほどまでの幸の姿がそこにあった。
「言祝ぎの歌で、幸の魂を取り出し、私の中に入れました、それを今、返したんです」
ゆっくりと幸の目が開く。
「幸ちゃん。どうだい」
岡田がそっと顔を寄せた。幸は両手を伸ばすと岡田にしがみついた。
「母様」
幸が絞り出すように声を出す。幸は泣きそうになるのを堪える。歯を食いしばって堪えた。
夕はぎゅっと両手を握りしめ、幸の姿を見つめる。
幸をしっかりと抱きしめてやりたいと思う。でも、この半透明の姿ではそれができない。なんて、情けないんだと思う。
幸が顔を上げ、夕を見つめた。
「夕姉様、助けてくれてありがとう、ございます」
夕がそっと笑みを浮かべた。
「どういたしまして」